幸せの香りがする家


チハヤ×アカリ
※2016/09/04のハッピーカブバーサリー!で出した本のサンプルです。(通販については上部のメニューのOFFLINEにて)
※ギルのみ年齢操作あり。
※本編ではチハアカ以外にギル→アカリ、タケマイ、まほヒカ要素あり。
※現パロ




 真っ白なのか、真っ黒なのか。
どちらともわからない不可解な色の世界から、頭を殴られたような衝撃が走り、息が詰まるのを感じた。
「っ」
 がばりと起き上がり、肩で呼吸をすると上がった息がぜえぜえと喉を鳴らせた。頭がガンガンと痛む。
 ああ、酷く悪い夢をみた。チハヤはそう、漠然と思った。
しかし、それがなんであったのかは覚えていない。ただ、胸を締め付けるような感覚だけが全身を包み、朝が来たことに絶望するような倦怠感を覚えた。
頭痛からなのかこみ上げてくる嘔気に顔をしかめ、ゆっくりと息を吐き眉間を指で揉んで気を紛れさせようとした。
寝ている間に汗をかいていたのか、シャツが肌にまとわりついて気持ち悪い。シャワーを浴びようとも考えたがそれも面倒に思えてシャツを脱ぎ捨てると、ひとまず新しいシャツに着替えた。
(おなかへった……)
 空腹を覚えて冷蔵庫を開けると、昨夜作った料理が目に入る。
「……あんまり見たくなかったな」
 この料理は師匠に提出して駄目だしをくらった料理を改めて自宅でも作ってみたものだ。朝食にはいいかと冷蔵庫から取り出すものの、正直これについて昨晩散々悩んだため気は進まない。夢見が悪かったのもこの料理のせいもありそうなものだ。

『お前の料理は、何処か寂しい味がするね』

 妙齢の女性らしい、落ち着いたしわがれ声を思い出す。御年、六十八を迎えたチハヤの師匠であるユバの声だ。その言葉をアドバイスとして理解したいものの、抽象的な言葉がどうもチハヤには理解出来ずに思わず聞き返したのを覚えている。感受性があまりないという自覚はあった。
『寂しいって、何かスパイスが足りないってことでしょうか』
『……次のお前の課題はこれだね』
 やれやれと言った風にため息をつかれ、チハヤもため息をつきたくなったものだ。師であるユバとは長い付き合いだが、あと一歩という時はいつも自分で考えさせようとする。それが悪いとか嫌だとかは思わないが、もう少しわかりやすくしてくれてもいいのでは、と思わなくもない。
『せめて、お前が所帯を持つようになったら変わると思うのだがね』
『先生まで僕にそんなことを言うんですか』
 二十を過ぎたあたりから、周りから結婚する予定はあるのかという話はひっきりなしに上がるようになったが、師匠から言われるとは思ってもみなかった。
『変な意味じゃないさ、気持ちの問題なんだ。人生を豊かにするような食事を心がけるのさ』
 そう言ったユバの顔は、厳格な師匠としての顔というよりも、子供を諭す老婆のようであった。

(気持ちって言われてもな……)
 電子レンジにその料理を入れる傍ら、ユバとのやり取りを思い返すが昨夜と同様、答えは見つからない。
つまり自分の料理には気持ちとやらが欠けているということなのだろうか。確かに、自分でも人らしい気持ちというものに欠けがあると感じている。決して気付いていないわけではない。
だが、どうすればいいというのだ。チハヤとて、好きでこの性格になったわけではない。
(……所帯……家族…。料理と何の関連があるってんだ)
 チン、という小気味よい電子音に皿を取り出すと、その場でひとまず手で料理をひとくち、口へと放り込む。
「…………」
 意識しすぎたせいなのか、自分でも寂しい味がするような気がしてきて、一気に食欲が失せていくのを感じる。
(僕に、そんなものを求めるなんて、先生も酷い人だ)
 ずっと一人で生きてきたようなものなのだ。料理の腕だって、自分が生きていくうえで必要だからとこなしていくうちに上手くなったにすぎない。
 すっかり食べる気力を失くしたチハヤは暫く悩んだあと、結局温めたばかりのその料理をそのまま再び冷蔵庫へと戻した。捨てたい気持ちもあったが、食べ物を粗末にすることは自分であっても許せないという気持ちが強かったのだ。
「………寂しい味、か」
 一人暮らしをしている記憶しかないチハヤには、一人でいることに寂しいという感覚は次第に薄れてしまっていた。この部屋に他の誰かが住むことなんて想像すらつかない。
(人生を豊かにする?……いいや、僕には、きっと、このままでも問題ない)
 今まで一人で生きてこれたのだから、今後もそのままで構わないはずだ。
そう考え付けたチハヤであったが、この後、彼は、自分の腹あたりしか背丈がない小さな子供によって、その生活が一転することとなる。





 どうしてこうなったのか。それは、未だにわからない。
「今日から僕は君の家で暮らすことにした」
 燻った金髪を綺麗に整え、髪色と同じ長い睫毛が縁取られた蒼い瞳。その白い四肢は成長期前特有の未発達な細さとなめらかさがあり、まさに等身大のフランス人形のような容姿の子供がそこに立っていた。
 というか、正確にはふんぞり返るように腰に手を当てて頭上のチハヤを見上げていた。チハヤの自宅前で。
「……ママゴトに僕を巻き込まないでくれるかな」
「僕は十一だ!そんな幼稚な遊びなぞしない!僕は本気だ!」
 そのまま玄関扉を閉めてしまおうとするチハヤに対し、その見目麗しい美少年は慌てたように扉の隙間からすり抜けた。十一歳という割には、彼は幼く見えるが、そんなことなんて今はどうでも良い。
なんということだ。非常に面倒なことになってしまった。
「大体、君の家は?僕、君のパパに目を付けられたくないんだけど」
 この気高き坊っちゃんは、なんとこのチハヤが住んでいる地域の市長の息子だ。所謂、御曹司である。本来、こんな一介の料理人の家にいるはずのない人物だ。
「父上はそんな陰険な人ではない!それに、ちゃんと了承は得ている!ほら」
 ご丁寧にも息子がお世話になります等々、達筆な字で書かれた手紙を、その少年はチハヤに見せつけるように掲げた。
「僕に拒否権はないわけ?」
「お前が拒否するというならば僕はこのまま大声を出して誘拐されそうになったと駆け回るつもりだ」
 なんという脅しをさらりと言いのけるのか、このボンボンのガキは。
 正直言って、チハヤとこの少年の付き合いは決して長いものとは言えない。むしろ、先々週くらいに会ったばかりの赤の他人だ。
 そんな浅すぎるほどの関係が、一緒に住む展開にどうやったら繋がるというのか。
 大体、彼とはその初対面の一度だけしか会ったことがない。

あの時、一体どんな印象を自分はこの少年に与えたというのだろうか。





 この少年と、ついでに言うとユバが仲を訝しんだ相手であるアカリと出会ったのは二週間前のことになる。
 チハヤが勤めている、師匠のユバが経営する店は、人通りの多い通りに面するホテルの中にあるレストランだ。レストランの名前は『アルモニカ』。ホテルだけではなく、レストランとしても名が知れるほどの有名店で、ホテルレストラン界隈でもアルモニカの名前を知らぬ人間はいない。
 そんな有名な所にはいろんな客が来るもので。
「今日は、市長さん一家がうちに泊まることになる」
 レストランの無口なソムリエ長が、料理長不在の代打として、そう始業の挨拶の言葉を切り出した。
 前々からそのことは耳にしており、その日のために料理の内容や食材の調達などに気を配っていた自分たちには、いよいよか、と思わせる言葉だった。料理長であるユバが不在なのは、その市長を迎えるためだった。
「一同、気を抜かぬように、とは言わない。いつも通りに仕事をしろ」
 以上、と短く述べられた言葉は、簡素だがわかりやすいものだった。緊張しすぎず、肩を抜いていつも通り仕事をすれば問題ないということだ。
「さて、と」
 厳かな雰囲気の挨拶が終わり、各自、仕込みに取り掛かろうとした、ちょうどその時。
 静かな店内に、騒がしい嵐が訪れた。

「タケル!!!」
 切羽詰まった若い女性の声が店中に響き渡り、キッチン奥にいたチハヤの元まで聞こえてきた。何事かと、思わず店内の方を覗いたのは、別にチハヤに野次馬根性があるわけではない。落ち着いた店内が売りの店に場違いな声だったのと、呼ばれた名前が意外だと思ったからだ。
 タケル、というのはこの店に野菜や酪農品などの食材を届けてくれる酪農家の青年の名前だ。温厚で優しい好青年といった売り文句のような言葉を体現したような人物なだけに、女性にそんな風に呼ばれるなんて滅多にないことなのだ。
「アカリ……」
 驚いたような表情のタケルが、店の入り口に立っている年若き女性を見て呆然としていた。赤みがかった茶髪の一見活発そうな女性。先ほど声を張り上げたのは彼女だろう。若い女性はくりくりとしたどんぐりを思わせる瞳に涙をたたえて、タケルの側までずんずんと距離を縮めると、耐え切れなかったようにくしゃりと表情を崩して涙を零した。
「どうしてっ、いっつもあたしには何も言ってくれないのっ……!!!!!」
泣き崩れる女性にタケルも感化されたのか、少し泣きそうな顔でその女性を抱きしめた。まるでドラマのワンシーンのようである。
(なんというか修羅場だな……)
 確かタケルは、ユバの孫と良い仲ではなかったか。この泣いている女性は、元カノとか二股相手とかそういったものだろうか。ユバの孫はチハヤもよく知る幼馴染みであるが、あまり気丈な方でもない。これを見ればショックを受けそうな光景である。
(あれ……)
 よく見ると店内には何人かスタッフが同じようにその光景を見ておりその中にユバの孫、マイもいたのだ。マイはレストラン自体には関与がないが、一応ホテルの人間であるためか、度々レストランのウェイトレスを手伝ってくれている。よって、その場にいること自体は珍しいものではない。ただ、いる場面がまずいだけだ。しかし、何故か、その表情はショックというより、他のスタッフ同様、ただただ驚いていると言った風にしか見えない。
「ごめんね、アカリ……君が泣くと思ったから言えなかったんだ」
 優しく幼子を宥めるような声に甘さは感じないが、発せられた言葉はなかなか常任の男が言えるような代物ではない。タケルだからこそ違和感なく思えるのだろう。
(何が起こっているんだ)
 どこからどう見ても喧嘩した恋人同士にしか見えないのだが、何処か引っ掛かりを覚えるのも確かで。
(とりあえず、今が開店前で良かった)
こんな修羅場はレストランには似つかわしくない。ましてや、今日は市長が来る日。日常生活にでもあってほしくないものが、市長のいる場で起きていたらなんて、正直考えたくもない。
「だからって、家を出て行くなんて、そんな大事なこと……っ」
「泣かないで、アカリ。君が大事だと思う気持ちは変わりないんだ」

 それに、僕達が双子のことは変わらないだろ。
 
「え、双子?」
 思わず声をあげてしまったことに関しては、チハヤは何も悪くない筈である。なのに、何故か傍観しているスタッフみんなの視線を浴びることとなった。
 タケルと、アカリと呼ばれた泣き顔の女性もこちらを見ていて、ぱちくりと目を瞬かせて驚いたような表情をした二人は、確かに瓜二つであった。



「あははは、なるほど、確かに恋人同士の台詞にしか聞こえないもんね!」
 チハヤの驚きを思いっきり笑い飛ばしたのは、先ほどの光景を見てショックを受けるのではと思われた、師匠の孫でありチハヤの幼馴染みでもあるマイだ。仕込みをしながらチハヤは手伝えとばかり目線をやると、マイは慌てて皿を拭き始めた。
「でもさ、兄弟にしてもあの会話はないでしょ」
 事の顛末はこうだ。元々恋人同士であったタケルとマイがこの度、結婚することになった。が、マイは有名なホテルの大事な一人娘。つまり、跡取りだ。婿をもらうのはいいとしても、嫁に出すわけにはいかないらしい。必然的にタケルがこちらで暮らすことに話が進んだのであった。
タケルの家は酪農家であったが、幸いにもタケルには兄と姉、そして双子のアカリがいた。家を継ぐ必要性はない。タケルは結婚の知らせと共に、家を出ると言ったらしい。双子のアカリには内緒で。
 内緒にしたのも理由があった。タケルの家は両親がいない。それゆえ兄弟の結びつきが強く、特にアカリとタケルは双子として互いに支えあって生きてきた。依存に近い形だったのだろう。そんな関係の双子が此度、結婚によって離れることになった。タケルも言い出しがたく、また、離れがたくもあり、兄と姉の口から伝えてもらうようにしたらしい。その結果、アカリは激しく動揺し、タケルがいるであろうと踏んで結婚相手がいるこの店まで来たという。
 しかし、アカリは別に結婚に反対しているというわけでもないらしい。散々二人でドラマを展開させたあと、誤解というものが解けたのだろう。お騒がせしましたと恥ずかしそうに、しきりに周りに謝っていた。
「まぁ、そう言ってくれるなよ、あいつらにとってそれくらいのことだったんだから」
 仕込みをするチハヤに、形ばかり申し訳無さそうに頭を掻いて詫びる、見るからに軽薄そうな風貌の男は、タケルの兄であるユウキだ。今回、アカリを連れてきたのは彼らしい。なんて嵐を引き連れてきてくれたものだろう。
「ほんと、いい迷惑だよ」
 おかげで、仕込みに入るのが遅くなった。結果的に野次馬になってしまったチハヤにも非はあったのだが、なんとなく八つ当たりしてしまう。
「前から思ってたけどさ、仲いい兄弟だよね〜。あたし、一人っ子だから羨ましいなぁ」
マイの反応は随分と慣れたものである。そもそもアカリとマイは面識があるようだった。タケルと付き合っている時点で彼の実家の方にも行っていたであろうから、それは別段不思議なことではない。
一応チハヤも、タケルにはユウキの他に兄弟がいることは以前から知っていた。だが、配達は主に男兄弟がしているためか会ったことはなかったのだ。
「……ふぅん」
 正直、謎が解ければ後はどうでも良かった。家族、なんてチハヤには縁遠い話だ。タケルたちには両親がいないが、それはチハヤにも言えることで、さらに言うとチハヤには兄弟すらいなかった。所謂、天涯孤独というものである。今更、それが悲しいとも寂しいとも思わない。ただ、他人の家族愛が理解できないでいた。家族というものは、そんなに大事なものだというのか。
「俺やヒカリですら、あいつらの間にも入れないし、片方の代わりにもなれないからな。っと、ヒカリってのは、もうひとりの妹のことな。そんでもって、あいつらの姉でもある」
 誰だ、というチハヤの顔を察したのかユウキが注釈をつけながら、タケルとアカリの仲の良さを語り始めた。生まれた時からずっと一緒だったらしい。学校でも、家の中でも、買い物するときだって、ずっとずっと引っ付いて過ごしていた。もちろん、成長に伴い、お互い一人の時間も増えつつはあったのだが、やはり他の兄弟のような距離が空いたわけでもなかった。
「でもタイミング悪く来ちまったみたいで、悪いな。今日、市長さん来るんだって?」
「え、なんで知って……」
「お兄ちゃん!帰ろう!」
 なんで知っていると問おうとした言葉が、高い声に遮られる。
 タケルと話が終わったらしい今回の騒動の中心でもあったアカリが、ユウキがいるこちらへと近づいてきたのだ。市長が来ることはあまり人に話す事柄ではないため、彼女の前で市長来訪に関する情報の出どころをユウキに問いただすのは得策ではない。そう判断したチハヤはユウキの代わりとばかり、言葉を遮った人物であるアカリをじとりと見やる。
(双子、ねぇ)
近くでまじまじと見つめると、顔造形はタケルとそっくりではあるが、女性というより少女という表現が相応しいような、あどけない顔つきがタケルよりも可愛らしいという印象を覚えた。とはいえ、彼女は女性なのだから、成人男性のタケルと相違ないという方が、違和感があるというものだが。
 しかし、正直なところを言えば、垢抜けない田舎者、というのがチハヤの見解だった。
「えぇ、せっかく来たんだし、なんか食って帰ろうぜ。この店の料理はうめぇぞ」
 ユウキは女好きであったが、アカリに話しかける今の彼の表情はそんな浮ついた所が削ぎ落とされたような、今まで見たことがないほど穏やかで親しげなものだった。
まったく、双子も双子だが、この兄も兄だ。本当に何処までも仲の良い家族なことで。
「食べるのは勝手だけど静かにしてよね。さっきみたいな大声は禁止だから」
 少しばかり冷たい言葉になったのは仕方のないことだとチハヤは思う。別に彼らが羨ましいわけではない、ただ、鬱陶しかった。家族愛だとか兄弟愛だとか、そういう眩しいものは、チハヤは好きにはなれそうにない。
「あっ、さっきはお騒がせして、ごめんなさい!あたし、アカリっていうの!いつもユウキとタケルがお世話に…」
 チハヤのあからさまな不機嫌な態度に慌てたようにアカリは頭を下げた。舌打ちしたくなる衝動をぐっとこらえて、目を細めてアカリを見やる。見つめ返してくる瞳は、ユウキともタケルとも似つかぬ、真っ直ぐな瞳で全てを見られているような気分になった。
「……いい、そういうのもいらない。別に僕は謝って欲しい訳じゃないし、ただ迷惑かけてほしくないだけだから」
 真っ直ぐな瞳から逃れるように視線を外し早口で言った言葉には、言外にもう来るなお前という気持ちを込めたのだが、生憎そういった意図を汲み取れるほどのアタマはないらしい。くりくりとした瞳を更に丸くして、数秒。何故か彼女は、ありがとうと礼を述べた。
違う、そうじゃないだろ。皮肉が伝わらない相手はこうも面倒くさかったろうか。いや、彼女くらいだろう。
「おい、チハヤ」
 とても友好的とは言えないチハヤの態度を見咎めるかのようなユウキの声に、勘弁してくれとチハヤは片手を揺らしてキッチンの奥へと入り込んだ。
 チハヤは名乗らなかった。これは、アカリとの関係を築くことへの拒否を意味する。
(きっと、彼女もすぐに僕を忘れる)
 大概の人間はチハヤの素っ気ない言動に、腹を立てて離れていく。必要最低限の人間とだけ付き合えればいいと思うチハヤには、それが一番楽な道だった。
面倒くさかったという気持ちの他に理由があるとすれば、ただ一つ。
これ以上、彼らの『家族』を見せつけられることが、息苦しかったのだ。



 問題は更にそのあとの事だった。
「ギル、お腹はすいたかい」
 市長はポスターやテレビで見た顔と比べ物にならないほど痩せこけていて、太っちょのイメージがあったチハヤには別人に見えた。
これが、妻を亡くした男の姿だというのか。これが、この地域を担う市長だというのか。
 ギルと呼ばれた子供は、利発そうな顔を無表情にしており、見た目の見目麗しさも折り重なって人形そのものだった。先ほどの父の言葉にも、軽く頷いただけで一言も発さない。
(似てない親子だな)
 ポスターで見た市長の顔ともギルという少年は似ていない。もしかすると、亡くなったという母親似なのかもしれないが。
 ウェイターにどうぞと促されるまま大人しく父の向かいの席に座ったギルは、全く子供らしくなかった。そんな所にチハヤは、妙に親近感を覚えた。
「マイの方がうるさいくらいだよね」
「ひどい!」
「ほら、うるさい」
 市長たちの様子をこそっと眺めながらチハヤが独り言をこぼすと、すぐ横にいたマイが反応した。タケルはどうしたのかと思えば、どうやらバックヤードでアカリたちと一緒にご飯を食べているようだった。そっちに行けとも思ったが、そういえば今はチハヤもマイも仕事中だった。
店内には他の客もいたが、思った以上に静かだった。市長に気付いていないのか、気付いてはいるが騒いでいないだけなのかは不明だ。
 市長親子のテーブルは店内で一番景色がよく見える席であるというのに、二人ともその景色を見ている様子はなかった。目の前に置かれたナプキンを自分の膝に置いてからは、市長が度々口を開いて話しかけているように見えたが、少年の口は一切動いていない。
 本当の人形なんじゃないかと思い始めた頃、オードブルがテーブルに運ばれ、いよいよ会話のない黙々とした食事が始まった。レストラン『アルモニカ』はフランス料理をメインとしているわけではないが、所謂ビップにあたる客にはフランス料理を出すのが通例だった。今回も例に漏れずフランス料理であったのだが、ギルは慣れているのか食事マナーは見事なものである。さすがは御曹司。
「絵になる子だね」
「市長の方はあまり食が進んでないみたいだよ」
 一口含んだものをずっとずっと咀嚼している市長は、美味しいと感動して味わっているというよりも、少しでも時間を稼いでいるように見えた。
「と、そろそろ取り掛かるか」
 いつまでも野次馬をしていてはいけない。市長親子に出す分のメインディッシュはチハヤの役目だ。
「海老の下ごしらえ、どう?」
「はい、大丈夫です、チハヤさん」
 厨房の他のスタッフにメインで使う海老の準備を確認した時だった。

「ギル!!」
 ガチャンという音と、市長の大声が店内の方から聞こえたかと思えば、何やら小さな影がキッチンを駆け抜けた。
「えっ!?」
 小さな影は見間違えでなければ、市長の息子のギルだった。一体、何が起こった。
 慌てたように追いかけてくるマイに事情を聞くと、どうやらオードブルにあったものでギルの口に合わないものがあったらしい。スープを運びにきたスタッフにギルが皿を下げるように言ったところ、市長が残っているよと指摘して、ギルは不味いものは食べられないと言ったそうだ。
そこまで聞いた所でチハヤはムッとした。不味い?ここをなんだと思っているんだあのガキは。
「ちょっとチハヤ。相手は子供なんだよ。それよりその後がさ」
市長は当然、そんなことを言ってはいけないだろう、何処が不味いというのだと言ったという。しばらくそんな何処にでもある親子のような会話が続いた。が、それらの言葉の中にギルには気に入らない言葉があったのか、突然、人形のように静かだったギルが父である市長を怒鳴りつけたらしい。残念ながら別の客を対応中だったマイには内容を把握できなかったが、その声に思わずそちらを見たという。怒鳴るだけでは気分が収まらなかったのか、ギルはその席から立ち上がると何故かキッチンの方へと向かったらしい。
「一体、何がどうしたっていうのさ……」
 今日は事件が次から次へと起こるものだ。
 事情をひとまず把握したチハヤは呆然とする厨房に「僕が見てくるからみんなは作業を続けて」と言い渡してギルが消えたバックヤードの方へと向かった。
 チハヤがユバに弟子入りしたのは十代前半の頃。二十を過ぎた今はレストランではユバの技術を継いだ者として若いながらもそれなりの地位にあったため、自分がことを確かめるのに誰も反論しなかった。
「ユウキ、そっちに……」
「はい、ボク。これ、どうぞ」
 バックヤードを覗き込んだ瞬間、アカリが、自分が食べていた料理をギルの口に運ぶ様子が目に入った。
 おい、何をするんだ、この馬鹿。市長のためにとスタッフが腕によりをかけて作ったオードブルを不味いと言った子供なのに、まかないに出すような料理がお気に召すわけがないだろう。
 そう思って止めに入ろうとチハヤが口を開いた瞬間だ。
「うまい……」
 か細い少年の声が、そうポツリというと静かに泣き始めたのだ。こればかりはアカリも驚いたらしい。どうしたのボク、と近くにあったさほど綺麗でもないタオルをギルの目元にやった。
 タケルとユウキも動揺したようにわたわたと子供の機嫌を取ろうと冗談を言ったりしたが、ギルの涙は止まらない。
「この、料理をつくったのは、誰なんだ……!」
「えっと、それは」
「……僕だけど」
 会話の間に入るようにアカリたちの座る職員用のテーブルに近づくと、ギルが目に涙を湛えたままチハヤを見上げた。
「どうして、さっきはこれを出さなかったんだ……」
 どうしてと言われても。困惑してチハヤは言葉に詰まる。
「いや、違うな、父が悪い……父は忘れていたのだ」
 何故そこで市長が出てくるのか。話が読めずに思わずアカリと顔を合わせるが、彼女もわからないとばかり首を振った。そりゃそうであろう。
 それでもチハヤはギルの反応が嬉しかったのかもしれない。ユバに「味が寂しい」と評価をもらっていたのもあるだろう。気分が高揚して、気付けば口を開いてこう言っていた。
「……よかったら、この料理、まだ残ってるから食べる?」
「!いいのか」
 そう言ったギルの蒼い瞳は涙に滲んでいたが、何処か輝きが見えた。人形だなんてとんでもない、歳相応の子供の顔だった。


 チハヤが作ったまかない料理を食べることで、一悶着済んだかと思えたが、そうではなかった。ギルがテーブルに戻りたがらず、アカリたちと食べると言い出したのだ。後から来た市長が「そうか」と静かに言って食事も少ししか口にしていないであろうに、部屋に戻っていってしまった。よって、市長一家に出すメインを作るというチハヤの仕事がなくなってしまった。厨房含むスタッフらは後はやるからといってギルの子守をチハヤに押し付けたのだ。どう考えても人選ミスだろうという抗議はギルの「料理はまだか」という催促にかき消された。
 自分だけが子守をするなんて当然無理だと早くも踏んだチハヤは、なんだなんだと騒ぐ酪農一家に簡単に話の流れを説明した。
「えっ!この子、市長さんの息子さん!?」
「あー、こいつがかぁ」
「似てないね」
 驚いたアカリと驚いていないユウキとタケル。これは、後者の二人が何故か市長が来ることを知っていたからだろうか。いや、それにしても驚かないのは随分と肝が据わっているものだ。アカリだけがまともらしい。
「そっか、だから口調が変わってるんだね」
 前言撤回、酪農一家はみんなおかしい。もっと、砕けた言い方でもいいのに、とギルを見たアカリはここへ来た時のような切羽詰まった時の自分の顔なんて忘れていそうなものである。
「お前たちは、僕を子供扱いしてくれるんだな」
 ひとしきり泣いて落ち着いたらしいギルは、アカリの隣の席で口にあるものをきっちり咀嚼し終えてから、意外そうにそう口を開いたのだった。
「?どういう意味だ、市長ジュニア」
「ギル、だ」
「ギルは子供扱いされたかったの?」
 ユウキに名前を訂正したギルはタケルの言葉に頷きかけてから、ううむと手を顎に当てた。その様は随分と様になっているが、食事中だぞと言いたくなるのはチハヤだけだろうか。
「いつも周りの大人は、こうあるべきという言葉だけ言って、僕が大人の振る舞いをすることを良しとした」
 だが、お前たちは子供らしくあることを良しとした。
 なるほど、周りが大人ばかりで少し、気を張っていたところがあったのだろう。先ほど泣いたのも、ギルを明らか子供扱いする態度に気が緩んだのかもしれない。
「不満を言わなかったの」
 市長に、というのは口にしなかったがギルには伝わったらしい。静かに首を振った。
「今の父上は、僕を見ていない」
「え?」
「母上が亡くなられてからずっと、父上は一人ぼっちの顔をしているんだ」
 やりきれないような声色でそう言ったギルの顔は、店内に入ってきた時のような人形の顔であった。
(子供になんて顔をさせるんだ)
 確かギルの年齢は十一。小学校五年生にあたる。少しずつ大人になっていく頃であろうが、まだ親というものを手放せない時期。そんな時に母を亡くしたのだ、このまだ小さな子供は。
「最低な親だね、勝手に死んだ母親も、勝手に一人だけ悲しいみたいな顔してる父親も。揃って君を一人にしたんだ」
「!おい、チハヤ」
 それは失礼だぞ、とユウキが咎めたが、チハヤは止められなかった。
「最低な親だってわかっているんだろう?はっきり、言ってやればいい。君が父親に何言ったかしらないけどさ」
悲しいのは自分の方だってなんで言わないんだ。
「……っ……!」
 手は上げていないが、チハヤの言葉にギルは頬を叩かれたような顔をした。今にも泣きそうだ。そんな顔にすらチハヤは舌打ちしそうになる。
アカリみたいに愛されて生きてきたような人間にも苛立ちを覚えるが、ギルに対する苛立ちは同族嫌悪に近い。
「そうだね、悲しい時は悲しいと周りの大人に言わなくちゃ。言葉にして、ね」
 意外にもチハヤの言葉に同意を示したのは、チハヤが苦手としている人種でもあるアカリだった。その声は、今日聞いた中では一番大人びた声で、それでいて優しい声色をしていた。
「僕は……僕は………!」
 悲しい。
 零れた弱音は徐々に嗚咽へと変わっていった。まかないを口にした先ほどの静かな涙とは異なる、子供らしい声を上げたうるさい涙だった。







※サンプルはここまで



2016.9.4に出したチハアカ本でした。
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